横浜の歴史

『横浜』の由来


横浜の歴史は室町時代の1442年(嘉吉2年)の文献に『横浜村』として描かれていたのが初出といわれ
諸説色々あるが、「横」に長くのびた砂州から「浜」で『横浜』になったと説がもっとも有力と思われる。

この横浜村があった辺りは半島状に突き出ていて「宗閑嶋(しゅうかんじま)」と呼ばれ、その地面は砂でできており、すなわち砂州だった。
この宗閑嶋は「洲干嶋」と書くこともあり、こちらは読んで字のごとくカッサカサな土地柄を表現している。

そして、下左地図を見れば分かるように、この「浜」が陸地から野毛方面に向かって、まるで入海にフタをするように「横」に突き出している。

「横」に伸びた「浜」…

これがズバリ「横浜」と名付けられた理由である。

この場所は、現在の中区本町通りにあたる。



周辺には、太田村や野毛村、石川中村などがあり、今でも市内に数多く地名として残っているものがいくつもある。

これらの村が集まって、現在の横浜市となっていったわけである。

下の図は1600年代の関内周辺を表したものなのだが……
まず黄色で囲った部分が、もともと「横浜村」とその周辺の村々である。


「横浜村」と書かれている、この辺りは現在の山下町に当たる地域にあたり、
1800年代までは横浜といえばこの部分だけだったのだ。
現在の大都市・横浜も、江戸時代(1800年代前半)は80数戸の家が立ち並ぶだけの寒村だったのである。

分かりやすくするために、当時の地形を現在の地図と重ね合わせた図である。



現在の「横浜」は海のイメージが強いが、住んでいる人はご存知の通り山も多い。
この時代もそれは同じで、海の近くまで山が迫っており、平地は少なく東海道からも離れている孤立した寒村地帯だったことがわかる。

住んでいる人たちは半農半漁の貧しい人ばかりで、半農とは言っても先述の通り横浜村のある宗閑嶋は砂地なので水田が作れない。
あったのは陸田(畑)だろうと考えられており、ただ平地が少ない上に灌漑(かんがい)整備も発達しておらず生産力は低かったと考えられている。

後にペリーと一緒に村を訪れた宣教師のウィリアムズも、自身の日記で「あまり繁栄しているようには見えない。
悪臭が漂っている」とジャーナリスティックに「ショボイ村」であることを記しているくらいである。
 
そんな横浜村だが、幸いにも海に囲まれて漁業や塩づくりが盛んに行われており、
『横浜いま/むかし(横浜市立大学刊)』によると、海の幸の中でもナマコが重要な財源であったと書かれている。

当時の幕府は対中貿易の輸出品として、中華料理には欠かせないナマコを取り扱っており、
特に1800年代初期には、お上から「どんどんナマコを取ってこい」とのお達しがあり、ナマコ採りはのちに村の一大産業となる。

村民はナマコを取って、煮て、乾かし、干しナマコとして江戸に送り、
それを江戸の商人が貿易の窓口である長崎まで運び、そこから中国に渡り、彼らの食卓に並んだのである。

現在、みなとみらい地区や八景島が埋立地であることは有名な話だが、実は現在の中心地域まで人工的に作られた土地だったのだ。


開港の際に一気にスターダムに押しあがったような都市だから、それ以前の様子は一般にはあまり知られていないのが現状である。


開港から現代までについては、今後、少しずつ書いてゆこうと思います。











Shot Bar AQUARIUM TOP